モータースポーツ > Honda Racing Gallery > F1 第三期 > Honda RA108
Honda RA108(搭載エンジンはRA808E)は、2008年のF1を戦ったマシンである。
2006年シーズンよりシャシー、エンジンともHondaの名による完全ワークス参戦へと舵を切っていた第3期F1活動は、翌07年から“アースドリーム”(earth dreams)という新プロジェクトも発足させていた。「F1マシンといえばカラフルなスポンサーカラーに彩られているもの」という長年の定説を崩し、スポンサー企業からの大いなる理解を得てスポンサーカラー及びロゴを排除、地球をイメージしたアースカラーをマシンに纏わせたのである。逼迫する環境問題の重要性、そしてそれに取り組むHondaの真摯な姿勢を象徴し、ファンを含む多くの賛同者を地球規模で拡大していこうという素晴らしい計画であった。
08年もアースドリームは継続されているが、RA108は前年のRA107の黒ベースとは異なり、白基調の新鮮味溢れるカラーリングで登場している。
完全ワークス参戦初年度の06年にHonda(Honda Racing F1 Team=HRF1)は待望の第3期初優勝を達成。しかし翌07年は極度の不振に陥ってしまっていた。06年の1勝も、第2期の多くの勝利のように他を圧する速さと強さで得たものではなく、展開の助けが大きかった部分もあったため、陣営は07年に向けてマシンの空力面のコンセプトを一新するなど、アースドリームのみならず多方面で意欲的な挑戦を展開していた。しかし、挑戦というものは時に失敗と背中合わせである。残念ながらRA107の戦闘力は期待に沿うものではなく、Hondaは07年、コンストラクターズランキング8位に終わった。前年に初優勝したジェンソン・バトンも最高位5位でシリーズ15位と低迷、ルーベンス・バリチェロに至っては自身初の年間無得点(この時代の入賞は8位まで)という辛酸を舐めた。
そして08年に向け、Hondaはロス・ブラウンを招聘する。ブラウンは、ベネトンとフェラーリでミハエル・シューマッハーの黄金期構築に大きく貢献した名テクニカルディクレクターだ。シューマッハー引退(のちに復帰)の後はやはり最前線から退いていたブラウンを、Hondaはテクニカルディレクターとしてではなく、チーム代表として迎え入れた。HRF1は06〜07年からの組織変革で生まれ変わろうとしていた最中であり、そこに必要とされていた最後の、そして極めて重要なピースが名将ブラウンその人であったのだ。RA108の基礎開発に加われるタイミングではなかったが、中長期的にチームを真に勝てる集団へと導くことを期待されての登用だった(RA108そのものの開発にはヨルグ・ザンダー、中本修平らが尽力した)。
2008年もバトンとバリチェロのコンビは継続、テスト兼リザーブには前年のクリスチャン・クリエンに代わってアレクサンダー・ブルツが加わった布陣でHondaは開幕を迎える。前年の不振には、タイヤがブリヂストン(BS)のワンメイクとなったため、06年までミシュランを履いていたHondaにはタイヤ変更に伴う対応という課題があり、それに苦慮したところも影響していた。BSワンメイク2年目となる08年はそういった問題も払拭され、上位で争う姿が期待されたものだが、このシーズンも苦闘が続いてしまう。
エンジン開発が規則で“凍結”されるなどしていたこともあり、世は完全に空力主導時代。RA108もノーズ先端に装着する“ダンボウイング”を考案したり、流行のシャークフィン(ドーサルフィン)を採用したりするなど、ブラッシュアップを重ねていった。だが、前年のRA107で大きく方向転換を図った空力コンセプトはなかなか結実を見ず、上位チームとの差は埋まらない。06年までは空力的にコンサバティブ(保守的)と評されることも多かった旧B・A・R Hondaのマシンだが、そこから一転、攻めの姿勢に出たことで熟成に予想以上の時間を要していた。前述したように、挑戦には必ずリスクがついてまわる。完全ワークス参戦となってHondaらしい果敢さを発揮したことが、この時期は裏目に出ていたのだ。
予選で上位グリッドを得ることができない以上、全体の完走率が驚異的なまでに高くなっている現代F1では、決勝で順位を大きく上げることなど至難。08年シーズン、第8戦までの入賞はバリチェロが6位と7位を1回ずつ、バトンが6位1回と、前年に比べれば良いが、Hondaは依然として厳しい状況に置かれていた。