モータースポーツ > Honda Racing Gallery > F1 第三期 > Jordan Honda EJ12
過去2年は日本人ドライバーの参戦がなかったこともあり、02年の日本GPは琢磨への期待で沸いた。多くの観客は鈴鹿に参集する時点で、琢磨とチームがEJ12に従来とは比較にならない手応えを感じていたことを知らない。それでも、若きニューヒーローの凱旋に鈴鹿サーキットは盛り上がった。
そして、その応援に琢磨とEJ12が応える。予選7位、もちろん琢磨のシーズンベストだ。フィジケラも予選8位とJordan Honda EJ12は鈴鹿で素晴らしい躍進を遂げる。母国で琢磨初入賞の期待も、急速に現実味を帯びてきたのだった。
迎えた決勝日。しかし好事魔多しというべきか、フィジケラがマシントラブルでスタート直前にスペアカー乗り換えを強いられる。フィジケラは1周目に11位まで順位を落とし、最終的にはやはりトラブルでリタイアに終わった。また、同じHonda製エンジン勢であるB・A・R Hondaの2台もレース中盤までにマシントラブルで戦列を去っており、その意味でも琢磨には大きな期待がかけられることとなっていく。
スタートで7位をキープした琢磨はこのレース、ルノー勢の2台、ジェンソン・バトン&ヤルノ・トゥルーリと争った。フェラーリ、マクラーレン、ウィリアムズという当時の3強6台から、デイビッド・クルサード(マクラーレン)が序盤のうちにマシントラブルで消え、入賞圏がひとつ空く。この段階で6位に上がった琢磨は21周目の自身最初のピットインまでその座をキープするが、先にピット作業を終えていたトゥルーリとバトンに先行を許し、レース中盤は8位を走行することに。
トゥルーリは33周目にトラブルでリタイアし、バトンは32周目に2度目のピットインを実施する。局面は琢磨6位、バトン7位と変化するが、琢磨には2度目のピットインが待っている。そこが入賞をかけた戦いの帰趨を左右する──。
琢磨は36周目にピットイン。そしてEJ12は、見事にバトンはルノーの前でコース復帰を果たした。熾烈な6位争いに琢磨とEJ12が打ち勝ったのである。そしてレース終盤にはウィリアムズのラルフ・シューマッハーがマシントラブルでストップ(11位完走扱い)。このレースではかなりのマシンがトラブルに遭遇していることが分かると思うが、当時のF1は全般的に、まだ今ほどには信頼性が高くなかったのだ。これで琢磨の順位は5位に上がる。恐いのはそれこそトラブルだったが、彼はトップと同一周回で53周を走り抜け、母国で初入賞を達成した。それも3強チーム以外の全車を予選、決勝とも実力で負かしての価値ある5位だ。
両手を挙げてゴールする琢磨、大歓呼で迎える観衆、日本GPのフィナーレは感動に包まれた。冒頭のミハエルの言の理由がこれである。そして琢磨は後年、「本当に忘れられないレース。ずっと走っていたいと思えたレースでした」と語り、さらにこう付け加えている。「鈴鹿でのEJ12は、僕の手足のように動いてくれました」。最終戦にしてようやく、EJ12はそのポテンシャルの高さを完全証明することができたのであった。
2002年10月13日の鈴鹿には、2台のウイニングマシンが存在した。1台は、ミハエル・シューマッハーが駆ったフェラーリF2002。そしてもう1台は、佐藤琢磨とともに戦ったJordan Honda EJ12であった。
型番 | Jordan Honda EJ12 |
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デザイナー | エグバル・ハミディ |
車体構造 | カーボンファイバーモノコック |
全長×全高 | 4600×950mm |
ホイールベース | 3140mm |
トレッド(前/後) | 1500/1418mm |
サスペンション(前/後) | ウィッシュボーン&プッシュロッド式トーションスプリング |
タイヤ(前/後) | ブリヂストン |
燃料タンク | 95リットル |
トランスミッション | ジョーダン製横置き7AT |
車体重量 | 600kg(ドライバー含む) |
型式 | Honda RA002E |
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形式 | 水冷90度V型10気筒 |
排気量 | 3000cc |
ボア×ストローク | ― |
圧縮比 | ― |
最高出力 | 800ps以上 |
燃料供給方式 | Honda PGM/F1 |
スロットル形式 | ― |