モータースポーツ > Honda Racing Gallery > その他 > Castrol 無限 ACCORD
そしてアコードの最終進化版にして97年の「本命」であるアコード3Xが、第4ラウンドの鈴鹿から登場した。フロントだけでなくリヤのトレッドも1535mmから1590mmへ広げられ、リヤフェンダーも拡幅。コクピットのロールケージ構成はシミュレーション試算に基づき再度見直された。ラジエターやサイレンサーの小型化も進み、ハイマウント化されたリヤウイングも含めエアロパーツの外観形状が大きく変更されている。
しかし3Xは、設計上の理想を追求しながらも、実戦では楽勝とはいかなかった。トヨタがFR方式の「チェイサー」をデビューさせたことからも分かるとおり、ライバル陣営の包囲網が強まっていたことも大きかった。トヨタの主戦車であるエクシヴは熟成が進み、輸入車オペル・ベクトラにも勝利をさらわれた。ニッサン・プリメーラP11型も旋回性能が向上、アコードも連戦連勝とはいかなくなった。さらにアコード自身、狙ったとおりの性能を発揮できないでいた。後年、北元は3Xについて「ちゃんと事前テストをしないで実戦投入したことがいけなかった。より低重心にとか、細かい部分での進化はあったんだけど、それが実戦で速いことと結びつくかどうか確認しないまま進めてしまった。ひとりで走るならどうにでもなるんだけど、レースではそうはいかない」と語っている。
テストや予選では速くても実戦で勝てないというのは、シーズン中からHonda陣営の悩みの種だったようだ。アコードはレールの上を走ると速いのだが、逆を言うと走行ラインに自由度がないという分析がされたという。翌98年仕様の「4X」への課題が見え始めていた。しかしHondaはシーズン半ば、9月のタイミングで97年いっぱいでの活動休止を決定し、公表。この年から参戦を開始したJGTC(全日本GT選手権。現在のSUPER GTの前身)へその活動の中心を移すこととなり、JTCCは97年での「連覇」に全力を投じるほかなくなった。
そして苦しみながらもアコードは、カストロールカラーに彩られたこの16号車の活躍によって、目論みどおりドライバーズ&チームのダブルタイトル獲得という目標を完遂する。黒澤と中子にニッサンの本山哲という実質3人のタイトル争いで迎えた最終ラウンドのインターTECには「助っ人」として前年チャンピオンの服部が緊急参戦。KOOLカラーを纏った1号車を「5台目」として走らせ、服部は両戦ともポールポジション/連続2位という結果で見事にHonda勢をアシストしたのだった。
しかしそのインターTECでは日本のモータースポーツ史に残る接触事件も発生している。最終戦(第16戦)の16周目、服部のアシストで第15戦を制しタイトルをほぼ手中にしていた中子がヘアピンで本山のインを差した際に両者が接触。スピンを喫した本山はスロー走行を続け、1周してきた中子が100Rで本山を抜きにかかった瞬間、本山は中子へ向けて舵を切り再度接触。両者ともリタイアとなったため結局タイトルを中子が獲得したのだった。のちに中子は1度目の接触に対し「無理な追い越しだった」と認め、本山も「当てられたと思い、タイトルの可能性も消え、カッとしてしまった」と語っていたが、これが「故意による報復行為」として大きな波紋を呼ぶことに。両者はその後、それぞれ非を認めて和解しているが、アコードと中子の偉業に水を差す、なんとも後味の悪いタイトル決着だった。
しかしアコードというJTCCマシンはやはり「最強のツーリングカー」と呼ぶに相応しい。JTCCに投入して2シーズン、Hondaはこのマシンで2年連続チャンピオン輩出という結果を残した。シリーズ開始当初にシビック・フェリオで連戦連敗を喫した彼らが、「レースとは、勝つもの」として真剣に一から開発に取り組んだ成果だった。最終戦でアコード3Xを駆った服部の言葉を借りれば「FFだってことを気にしないで普通に走れ、コースレコードを連発できる。とにかくすごく速いクルマ」なのだった。「本気になったHondaは恐ろしい」──。日本のモータースポーツ界に深く刻まれた、後年のNSX-GTやHSV-010GTに通じるフレーズもこのアコードが出発点だったと言える。アコードとは、それほどまでに究極の最強最速ツーリングカーであった。