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1994年にグループAの後を継いで始まったスーパーツーリング(当初はニューツーリング)カー規定による全日本ツーリングカー選手権の略称がJTCC。Hondaは前身の同名選手権(略称はJTC)に歴代シビックを投入、大活躍を演じていたことからJTCCへも継続参戦することを決定、初年度の94年には6台のシビック・フェリオを送り込んだ。JTCでのシビックは最終年の93年までに総合優勝1回を含むクラス優勝36回、7年連続メーカー別シリーズチャンピオン獲得と圧倒的な戦績を残していた。FFレイアウトの量産車ベース車両に2000ccエンジンを搭載するJTCCとなってもHondaのアドバンテージは揺るがないと、誰もが思っていた。
ところがシビック・フェリオは、JTCCでは予想外の敗戦が続いた。初年度は1勝もできず、2年目の95年シーズンも抜本的な改善策が採られることもないまま、ただ黒星を積み重ねてしまっていた。これに対しHondaは現状の問題点を洗い出し、車体設計からエンジン、空力に至るまですべてのポイントを見つめ直すこととし、プロジェクトリーダーにはかつてターボ時代のF1でエンジン設計を務めた北元徹を就けた。北元は根本的な対策を一から施すべく、ベース車両の選定から見直すこととした。シビック系を諦め、勝つためにアコードをチョイスするのだ。北元は「ドマーニなど、他のクルマは最初から眼中になかった。アコードなら車高を極限まで下げられるし、全体の剛性も高い。図体は大きくなってしまうが、その分余裕ができる」と語っている。
シビック・フェリオがあくまで「グループA(JTC)の延長」で作られていたのに対し、アコードは当初から最強のツーリングカーを目指していた。各所からの要求を高次元で妥協なくクリアすべく、アコードは設計当初から勝利を目指して作られた。たとえばフェリオのエンジンは当初、扱いやすさを重視してロングストローク方向に振られたB18C型という1800tのものをベースにしていた。しかしスプリントレースのJTCCでは低回転からの立ち上がりトルクよりも高回転での出力ピークの方が重要で、高回転・高出力でなければ勝てなかった。そこで94年シーズン途中から市販車のプレリュードなどに載るH22A型での開発が始まり、95年中に一部マシンへテスト搭載された。H22A型は当時の主力であるリバースヘッド方式であり、ショートストローク/高回転の要求にも応えた。
北元は設計陣への意識改革も行なった。「グループAの延長」という思い込みの枠を外させ、かつてラルトというシャシーコンストラクターを率いてHondaのF2挑戦を支えた名エンジニア、ロン・トーラナックをアドバイザーとして招くなど体制を整えた。トーラナックは旧来フロアから伸びていたシフトレバーの位置をステアリングに近づけ、いわゆるコラムシフトタイプにすることを進言。また設計段階から『ここでは力がちゃんと受けられていない』と図面レベルで指摘するなどし、各パートに分かれていた設計作業を1台のレーシングカーとしてまとめ上げる作業を統括した。
そうして96年、Hondaの新JTCCマシン、アコードが実戦にデビューした。競技車両のコードネームは「1X」とされた。アコード1Xは圧倒的な速さを示し、それまで続けていた連敗を食い止めたばかりか、ライバルを蹴散らして開幕6戦中5勝を挙げるなど大活躍をみせた。なかでも最速のエースとしてシーズンを引っ張ったのがこのカーナンバー14、服部尚貴のJACCS ACCORDである。服部は富士スピードウェイでの開幕2連勝の後も第4戦SUGO、第5戦鈴鹿、第11戦十勝でも勝利。3度の2位もあり、抜群の安定感で自身初となるシリーズチャンピオンへ向けひた走った。