モータースポーツ > Honda Racing Gallery > F1 第二期 > Tyrrell Honda 020
91年、ティレル020・Hondaは、序盤は悪くない戦いぶりを見せる。開幕戦ではモデナ4位、中嶋5位と、同じ米フェニックス市街地コースで前年にアレジ(2位)と中嶋(6位)が見せたパフォーマンスを彷彿させ、今年も、と思わせるのに十分な結果だった(注:前年の開幕戦のティレルのマシンは前々年型018)。第3戦サンマリノGPでも一時はマクラーレン勢とHonda製エンジンによる1-2-3-4を形成するなど、中嶋初表彰台の機運が感じられる内容。しかし、シーズンが進むにつれてティレル勢は苦戦の色を強め、サバイバルな展開となったなかでモデナが2位を獲得した第5戦カナダがシーズンハイライトとなってしまう。
ちなみにカナダGPはネルソン・ピケ(ベネトン・フォード)とモデナの、ピレリ・タイヤ勢1-2であったが、主流派グッドイヤーに対し、89年から復活したピレリがなかなか互角には戦えなかったことも、ティレルの躍進にブレーキをかける材料であった(91年限りでピレリはF1参戦を休止、カナダでのそれが3年間で唯一の勝利だった)。
そして中嶋は引退を決意する。5年間のF1生活にピリオドを打つことを第9戦ドイツGPにおいて発表し、自身と、そしてなによりもファンにとって悲願の表彰台に向けて挑戦を続けたが、シーズン後半はその可能性を見出すことさえ難しい戦況となっていた。第6〜16戦におけるティレルの入賞は日本GPでのモデナ6位のみ。それも、ブラバム・ヤマハのマーティン・ブランドル(5位)に敗れての入賞だったわけで、前述のモデナの移籍経緯と併せ考えた場合、なんとも厳しい結果ではあった。
中嶋にとっては開幕戦の5位がシーズン唯一の得点となる。日本GPは、鈴鹿の大観衆の歓呼に見送られてのリタイアだった。
91年は期待されたレベルの成功を収められなかったティレル020。だが、実はこのマシン、その後もティレルを支え続けた。BRAUNが1シーズン限りで去り、またもや(さらに)財政事情が逼迫したティレルは、92年を020BにイルモアV10エンジン搭載という苦しい体制で凌ぐことに。翌93年にはヤマハV10搭載となるが、本命車021登場までシーズンの約半分を020Cで戦っており、片山右京もこのマシン(020系)で走っているのだ。
92年にはアンドレア・デ・チェザリスが4〜6位に4度入賞するなど、渋い働きを見せ、名門ティレルの命脈をつないだ020系。中嶋表彰台の夢こそ叶わなかったが、なかなかどうして、やはり素性は悪くなく、2年半のトータル実績を見れば、まずまず以上とも評せよう。ただ、91年のティレル020・Hondaにかかっていた期待は、とても大きなものだったのである。Honda製RA101Eエンジン各機のシリアルナンバー冠号に、中嶋悟のイニシャルである「SN」が使用されていたという象徴的な逸話も残されている。