モータースポーツ > Honda Racing Gallery > その他 > MOTUL 無限 CIVIC
Hondaの4輪モータースポーツ史、その始まりは世界的にも珍しく、やや特殊な例だったと言えるかもしれない。なにしろ、企業として初めて本格的に取り組んだ4輪レースカテゴリーがF1だった。ふつうは量産車を足がかりにステップアップしていく例が一般的だろうが、しかしHondaはいきなり頂点であるF1を標榜し、しっかり成功の足跡を残してみせた。創業以来チャレンジ精神と最先端・最高峰のテクノロジーを企業理念としてきた。創業者、本田宗一郎の判断によるものだった。
そして第一期のF1活動を68年に終え、排ガス対策期の中断を挟み、80年にレース活動を再開したHondaが選んだ道はヨーロッパF2選手権へのエンジン供給だった。これが83年に始まる第二期F1活動の伏線だったことは広く知られている。やはり時代が変わっても視野にあるのは頂点=F1だけなのかと思われていた矢先の85年、しかしHondaは突如ワンダーシビック(AT型)を擁してこの年に始まるグループA規定の全日本ツーリングカー選手権(JTC)に参戦を始めたのだった。それ以前にも有志の社員らで構成されたチームヤマトがマイナーツーリングというレースに参戦してきてはいたが、自動車メーカーとしてHondaが全日本格式のツーリングカー選手権に参戦するのはこれが初めてのことであった。
AT型シビックの参戦はシーズン途中の第3戦、西日本戦からであった。この時はリタイアに終わったが、続く第4戦鈴鹿で早くも地力の高さを見せつけることとなる。決勝レースは雨が降ったり止んだり目まぐるしく天候が変わったことにも助けられ、なんと最小排気量のクラス1車両(1600cc以下)ながら総合1位、オーバーオールウインを達成してしまうのである。実にセンセーショナルなデビューであった。
シビックの登場はいろいろな意味で衝撃的だった。まずHondaが初めて量産車レースの領域に足を踏み入れたこと。本格的な4輪車市場への進出を目論み、企業としてのPR効果を狙った60年代のF1とは異なり、すでに世界的にも指折りの自動車メーカーとして認知されていたHondaにとって、量産車の基本性能で戦うグループAレースは看過できないカテゴリーだった。このレースで優れた成績を残すことは量産車の基本性能に優れることを意味することになり、若者に人気のテンロク市場で高性能をセールスポイントとするためには、またとない性能実証の場と捉えたのである。
ドライバーの組み合わせも強烈だった。当時の国内最高峰、全日本F2や富士GCシリーズで何度もタイトルを獲得していた中嶋悟と、やはりF2/GCに参戦する天才肌の若手ドライバー中子修を起用。“ハコの使い手”たちを黙らせるに十分なラインナップと言えた。
各クラスともFR車が主戦力となる車種構成の中で、FF方式によるシビックの登場も興味深いものだった。2レース目で勝った鈴鹿ではFF方式による駆動の優位性や基本性能の高さを存分に発揮。2番手以下に1分近い大差をつける完勝劇を演じたのである。
こうしてAT型シビックはJTCに欠かせない有力車種となり、翌86年からは無限(現M-TEC)を介してエントリー(85年はヒーローズが担当していた)。他チームへの車両供給も開始した。この年は中嶋が全日本F2に加えて国際F3000へも挑戦を開始するという過密スケジュールになったことを受け、中子修/佐藤浩二へとドライバーの組み合わせを変更。しかし開幕戦で総合3位と上々の滑り出しを見せたものの以後はリタイヤが続き、成績は低迷。信頼性に勝るトヨタ陣営とのバトルは熾烈を極めた。
そしてJTC3シーズン目となる87年、車名をMOTUL 無限 CIVICと改めドライバーも中子修/岡田秀樹という新しい組み合わせとなり最強のパッケージが誕生する。カーナンバーも近現代まで「無限のゼッケン」として知られる16番に変更され、車両の熟成も進んだ。ZC型1600ccエンジンは軽量コンパクトであるメリットはそのままにさらなる高回転化を実施、180ps/7500rpmというスペックに達した。