モータースポーツ > Honda Racing Gallery > F1 第二期 > Williams Honda FW11
Hondaが第2期で初優勝を挙げた1984年は獲得ポイント25.5点でコンストラクターズランキングでは6位(チャンピオンのマクラーレン・TAGは143.5ポイント)だったものが、翌85年には71ポイントを獲得してコンストラクターズ3位(同じくチャンピオンのマクラーレン・TAGは90ポイント)と、84年終盤から85年の1年強で、ウィリアムズ・ホンダの実力は数字のとおり高まってきていた。
この間、85年からジャック・ラフィットに代えてナイジェル・マンセルを迎えたウィリアムズは、マクラーレンとフェラーリに続き5勝を計上。上位入賞も増え、表彰台の常連となった。ここで紹介するウィリアムズ・ホンダ FW11は、85年終盤にFW10が記録した3連勝の勢いを受け継ぎ86年に登場。初めてのコンストラクターズタイトルをHondaにもたらした記念すべき車両である。
マシンの造りはウィリアムズの常で、コンベンショナルかつ基本に忠実と評せるもの。シャシー構造はフルカーボンモノコックであり、80年代初頭のようにカーボンパネルを貼り合わせただけの“暫定的構造”ではなく、素材や製法上の特徴を活かした一体成形のモノコックタブを持っていた。このあたりは性能と信頼性のバランスで最も現実的な選択肢を採るウィリアムズらしい手法と言え、こうした側面がHondaにとっては最良のテストベッドとして作用し、エンジンの開発・熟成に大きく役立っていた。
実際、86年の規定では決勝レースの燃料使用量が220リットルから195リットルへと制限され(レース中の給油は禁止)、パワーはもとより燃費性能に優れることもエンジンに求められるようになっていた。しかしこうした規制強化は、F1を「走る実験室」と標榜するHondaにとっては望むところ。結果は獲得コンストラクターズポイント141点(2位マクラーレン・TAGは96ポイント)という数字にも表れていた。
当時のターボエンジンの技術向上は目覚ましく、HondaのRA166Eエンジンはリッターあたり1000馬力、つまり1.5リットルの排気量で1500馬力という、途方もない性能レベルに達していた。こうした天井知らずの性能向上は当然ながらFIA/FISAの懸案事項となり、86年には燃料タンク容量が前述のとおり195リットルに、87年には最大過給圧が4バールに制限され、それが88年には150リットル/2.5バールまで段階的に厳しさを増していった。
それでも86年はブラバムから新加入したネルソン・ピケが4勝、“レッドファイブ”のマンセルが5勝で計16戦9勝という圧倒的な強さを見せコンストラクターズタイトルを獲得。ドライバーズタイトルも射程圏内だったが、指揮官フランク・ウィリアムズが春先に交通事故に遭い、現場から離れていたしばらくの間にチーム内が「ピケ派」と「マンセル派」に分裂。迎えた最終戦オーストラリアGP(アデレード)の劇的な展開によってマクラーレン・TAGのアラン・プロストに逆転優勝を許してしまう。当時は11戦分の有効ポイント制だったため最終的にマンセル70ポイント、ピケ69ポイントとなり、72ポイントを獲得したプロストが戴冠。いきなりのダブルタイトル獲得とはならなかった。
この件が尾を引いたか、翌87年にピケはHondaに初めてのドライバーズタイトルを献上したものの、88年にはロータスへと移籍。Honda陣営もダブルタイトルを手みやげに、ウィリアムズとは袂を分かつ決定を下した。そうして誕生したのがアイルトン・セナとプロストのふたりを擁した“最強帝国”のマクラーレン・ホンダMP4/4である。
型番 | Williams Honda FW11 |
---|---|
車体構造 | カーボンファイバーモノコック |
全長×全幅×全高 | 未発表 |
ホイールベース | 2855mm |
トレッド(前/後) | 1829/1676mm |
サスペンション (前後とも) |
ダブルウイッシュボーン+インボードスプリング |
タイヤ(前/後) | 12-13/16.5-13インチ |
燃料タンク | 195リットル |
トランスミッション | 縦置き6MT |
車体重量 | 540kg |
型式 | RA166E |
---|---|
形式 | 水冷80度V6DOHC24バルブ+ツインターボ |
総排気量 | 1494cc |
ボア×ストローク | 79.0mm×50.8mm |
圧縮比 | 未発表 |
最高出力 | 1050ps以上/11600rpm |
燃料供給方式 | PGM-FI 2インジェクター |
点火装置方式 | CDI |
過給機 | ターボチャージャー×2基 |
潤滑方式 | ドライサンプ |