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F1活動再開に向け、Hondaはまず欧州F2へのエンジン供給を決定。1980年、新たに開発した2LのV6エンジン「RA260E」を欧州F2に参戦するラルト・チームへと供給、ナイジェル・マンセルをドライバーとして徐々に戦果を残し始めた。最終戦ホッケンハイムでは2位表彰台を獲得し、 60年代に無敵の11連勝を誇った「ラルト・ホンダ(当時はブラバム・ホンダ。ブラバムF2の設計者はラルトのロン・トーラナック)」の最強コンビ復活は目前となった。 翌81年はジェフ・リースを主戦に据え、マイク・サックウェルへも供給し2台体制に。リースが3勝を挙げるなど前年以上の活躍を披露し、見事2年目でタイトル獲得を実現してみせた。その後も欧州F2でのHondaは活躍を続け、82年はティエリー・ブーツェンのスピリット201・ホンダがシリーズ3位、83年はジョナサン・パーマーとサックウェルでシリーズ上位2位を独占、84年もサックウェルとロベルト・モレノのふたりでシリーズ1位と2位を分け合った。83年後半から84年前半にかけてはパーマー、サックウェル、モレノで破竹の12連勝を飾り、エンジンを供給した4シーズン半の間に3度もチャンピオンを獲得してみせたのだった。
そんな「最強」の名を欲しいままにしたHondaのF2エンジンは、81年より生沢徹のチーム(i&iレーシング)を通じて全日本F2選手権へも供給を開始。ドライバーは中嶋悟で、欧州のシリーズとは異なりシャシーはマーチであった。ライバルは欧州F2同様、フォード系2Lエンジン(主にBDA)を駆逐してワンメイク状態を築き上げていたBMW製M12/7型である。
BMWのM12/7型は4気筒レーシングエンジンとしてはロングストローク型と言える89mm×80mmのボア×ストローク値(ボアストローク比=約1対0.9)により、中〜高速トルクに優れる特性を持っていた。この特徴を活かして回転馬力型のフォード系エンジンを制してきた格好だが、ブロックはBMW2000系の量産型、基本設計も70年初頭と古く、すでにライフ末期のエンジンとなっていた。
こうした状況下にHondaは新設計の超高速回転型6気筒エンジンを持ち込んだのである。もともとがモーターサイクルのメーカーで、超高回転域における高速燃焼のノウハウに長け、高出力型のエンジンを作らせたら世界トップレベルの技術を有していたHondaのこと、BMWへのアドバンテージは当初から明白だった。