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GT-Tクラスを独占していたエスハチにとってクラス優勝は当然の結果であり、上級クラスの車両を相手に総合順位をどこまで上げられるかがひとつの着目点にもなっていた。今回ここで紹介する、ホンダコレクションホールに飾られる黄色のゼッケン25の車両はこうした快挙を成し遂げたうちの1台で、68年の鈴鹿12時間レースで総合3位に食い込む快挙を見せた個体である(右上の当時写真は同年の別レース時のもの)。この時期はすでにメカニズム面も熟成され、ドライバーが永松邦臣/木倉義文、車両製作がRSCとまったく隙のない体制だっただけに、レース前から注目度は高かった。それでも格上クラスの車両であるフェアレディ2000を4位に退け、トヨタワークスが自信を持って送り込んだグループ7プロトカー、2台のトヨタ7に次ぐ3位を獲得した時には、場内から大きなどよめきが起きたとされる。
ハイチューンを施された車両であるにもかかわらず、12時間という長丁場を走りきった信頼性の高さは特筆に値するもので、こうしたあたりにエスハチが持つ基本性能の高さと確かさを窺うことができた。これと同じようなことは、67年のニュルブルクリンク500kmレースでも見ることができた。生沢徹がエスハチを持ち込み、見事にクラス優勝を遂げているのだ。世界屈指の難コースをレーシングスピードで500km走り抜いた実績は、エスハチが持つ基本性能の高さを示したものに他ならなかった。
さらなる逸話として、独立したシャシーを持つエスハチの車体構造が果たした日本のレースへの貢献度についても触れておこう。エスハチはオリジナルボディを降ろした後、カスタムメイドのボディを架装するレーシングカー作りの素材としても広く活用された。童夢の林みのるが作った「マクランサ」、濱素紀の「コニリオ」などはその代表例で、黎明期にあった日本のモータースポーツ界においてレーシングコンストラクターを生み出し、育てる役割も果たしていたのである。
Honda S800は、それ自体も高性能なスポーツカーであると同時に、戦闘力の高いレーシングGTとして、さらにはレーシングデザイナーやコンストラクターを育てる潜在性能の高い素材として、日本のモーターレーシング界で大きな役割を果たしたのだった。