モータースポーツ > Honda Racing Gallery > F1 第一期 > Honda RA272
RA272は1965年のF1世界選手権を戦ったマシンで、Hondaの第1期F1活動においてはRA271に続く2作目の自製マシンとなる。RA271と同じ1500ccの12気筒エンジンを搭載しながら各部に改良が施され戦闘力が向上、シーズン終盤には発展型も登場するなどしてライバルに伍する速さを獲得した。結果、同年の最終戦メキシコGPにおいてエースドライバーであるリッチー・ギンサーが優勝。Hondaとグッドイヤータイヤに記念すべきF1初優勝をもたらしている。HondaにとってF1デビュー11戦目の快挙だった。
わずか3レース、それもトラブル噴出に終わった64年シーズンのRA271。66年からはエンジン規定が変わり3000ccまで排気量が拡大されることが発表されたため、65年は新型車を開発せずRA271の改良で臨む方針が採られた。規定重量(450kg)より75kgも重かった車重の軽減と信頼性の向上、補機類のレイアウト変更などが開発項目として検討され、エンジン出力引き上げも図られた。またロニー・バックナムのほかに開発能力に優れたリッチー・ギンサーを加えることで2カー体制を確立した。
64年のRA271デビュー時、すでにグランプリエンジン中で最高値となる220psを発生していたRA271Eエンジンは、構造材の材質変更により軽量化が図られ、RA272Eエンジンとして生まれ変わった。この年は第2戦モナコGPから第6戦オランダGPまでの5戦を初期型、第7戦のドイツGPを欠場して改良にあて、第8戦イタリアGPから最終第10戦メキシコGPまでの3戦を「RA272改」と呼ぶべき発展型で戦った。前半戦はギンサーが6位を2回獲得したのみで、あとはすべてリタイアと信頼性を欠いていたが、改良後の後半戦はイタリアでバックナムが1度リタイアしたのみ。そして最終戦のメキシコGP。このレースではチーム監督に中村良夫が復帰。元航空機エンジニアであった中村は高地(低気圧下)でのセッティングを施した。予選3番手からスタートしたギンサーはレースの主導権を握り、結局一度もその座を譲ることなくトップでチェッカーを受け、Hondaに記念すべき初優勝をもたらしたのだった。この時に中村が東京のHonda本社へ打電した電報の一文「来た、見た、勝った!」という言葉は日本のモータースポーツ史に残る名言のひとつとなった。
RA272はシャシーのフレーム構成をRA271から引き継いでおり、軽量化や整備性向上、セッティングの利便性アップなどを目的に改良発展させた65年用モデルとも言える。しかし共通部分は多くなく、サスペンション形式を変更したほか、トレッドは前後とも拡大されている。